Author: Bernard Shaw
翻訳版の有無: あり。「ピグマリオン」
映像化: あり「マイ・フェア・レディ」
英語レベル: AdvancedよりのBasic(一日3分間英語に向き合えるレベル)
この本を読むと、「自分が抱く恋愛の理想が高いことに気づくことが出来る」というベネフィットを得られます。
私は、オードリー・ヘップバーンは多くの人達の心を引き付ける女優の一人だと、考えています。
これまでもですし、これからも。
これは私個人の感想ですが、彼女の外見の可憐さはもちろん、出演する作品での役柄は彼女の「可憐さ」に反してバイタリティーに富み、少女らしさと言うより女っぽさを強調する役柄が多いことが、彼女の魅力なのではと考えています。
さて、その彼女が出演した作品の一つ「マイ・フェア・レディ」の原作となった、本作ピグマリオンですが、自分が作り上げた彫刻に恋をした男性のことを指します。
転じてこの作品は、偶像に恋する男性の話なのです。
言語学者のヒギンズ教授(Henry Higgins)が雨の夜に、訛の強い花売り娘エライザ(Eliza Doolittle)と偶然の出会いを果たします。
その場には同じく言語学者のピカリング大佐(Colonel Pickering)も居合わせ、ヒギンズとピカリングは意気投合します。
ヒギンズとの出会いをきっかけに、翌日エライザはヒギンズの元へ転がり込み、生活を良くしたいからと言語指導を依頼します。
ヒギンズとピカリングもエライザを洗練された女性に生まれ変わらせる賭けをして、その日から実験スタート。
結果、彼らの実験は大成功してエライザは変わることが出来、男性二人を大いに満足させるというのが大筋。
ただ、毎日一緒にいると人間は情が湧いてくるのが常で、実験としてこの関係を割り切る男達二人に対し、厄介なのがエライザ。
実験材料としてしか自分を見てもらえないことに不満を覚えます。
偶像化されたエライザと、彼女を偶像化したヒギンズ、そしてピカリングの齟齬がここに生まれます。
彼らの構図は珍しくなく、新入社員の女性と上司、指導役の先輩みたいな構図に似ていますね。
育ってほしい後輩像が上司と指導役の先輩にはあるため、熱心に新入社員を育て上げる。
その熱意に応えようと新入社員が頑張る。
ただこの例えと作中の三人の違いは、お互いに対するリスペクトの違いでした。
エライザが面白くなかったのは、ピカリングが自分を始終レディとして扱ったのに対し、ヒギンズは花売り娘として扱ったことでした。
洗練された女性に生まれ変わらせることを目的としているのに、ヒギンズの態度の矛盾は不思議でした。
そして花売り娘としてエライザを見ているということは、ヒギンズは彼女を自分より下に見ているということになり、理想化してあがめるというより自分の思い通りに動かそうとしているようです。
理想の女性像を作り上げるというテーマの他に、本作の議論になるのがエライザとヒギンズの関係について。
本作では二人は結婚する、しないをはっきりせずに結末を迎えるのですが、多くの読者はハッピーエンドを望みました。
ハッピーエンドを望んだのは映画も同じで、美談に描いています。
しかし著者は違ったようで、あとがきを書き足して美談をすべて否定しています。
そのあとがきの中で、ヒギンズの理想像は自身の母親である旨が書かれていました。
そうするとヒギンズの態度の矛盾は納得で、母親を理想とするあまりにエライザを理想の女性として生まれ変わらせようとしても心が伴わないのです。
ピグマリオンは、石像を作った男性(ピグマリオン)がその石像にやがて恋をする神話で、そのテーマを基に本作が作られました。
私達も相手に自分の理想を押し付けてしてしまうことがあると思います。
特に恋愛は顕著ですね。
優しい人がいい。
面白い人がいい。
自分を守ってくれる人がいい。
こういった理想を持つことはもちろん悪いことだとは思いませんが、相手の態度が自分の理想と反した時に不満を持ち、一番身近な異性である親を引き合いに出すのは定番ですね。
親を理想の異性として無意識に思い浮かべるというのは、私達は本当に恋愛や人間関係に対する理想が高い。
親の愛情は無条件です(ほとんどの場合)。
それを生まれ育った環境が異なる他人に求めるのは、理想が高いというもの。
そんな他人同士が妥協点を探り合い、お互いにリスペクトを抱いて接し合うから関係がうまくいく。
先述の通り、ヒギンズはエライザへのリスペクトが欠けていたため、エライザから反感を買いました。
理想の女性像となっても所詮本当の理想の女性ではないエライザを、ヒギンズは無意識に不満で無下に扱うため反発が生まれます。
自我を持ち成長するエライザと、自分の理想の世界の中で生きるヒギンズの平行線は、私達に人間関係を作る時の大切なポイントを訴えかけています。
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